ミッションたぶんPossible

どこにでもいるシステムエンジニアのなんでもない日記です。たぶん。

自分の半生をただひたすらにダラダラ書いてみる

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はじめに

 この記事は自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2019 - Adventarの3日目です。


 オレの職業はシステムエンジニアという職業に就いています。システムエンジニアプログラマという職業は、一般的にはシステムとプログラムを相手にして、人とは滅多に関わらない仕事だと思われがちですが、実際には意外にも他者との対話が多い仕事なんです。大きなシステムは一人じゃ作れないし、自分の知らないことは他人(客・事業部門の人間)から聞かなくちゃわからない。部下を持てば当然評価面談も行わなくちゃいけないし、採用を行えば面談で対象者からそれまでのキャリアと身につけた技術を聞き出さなきゃならない。そんなこんなで対話の機会も多く、中にはその人から半生記めいたものをインタビューして聞き出すこともありました。
 ただ、そうしたことをこれまで自分自身にやったことは無かったなぁ、と思いまして、今回このアドベントカレンダーに便乗して、自分自身の人生の棚卸し的な何かをやってみようかなと思います。


 この記事を書く上での基本方針は2つです。

  • 人生の特定の期間ごとに区切り、その期間に何があったかを数行にまとめる
  • そこで得た学びを1〜2挙げる

 オレは長くダラダラと書く傾向にあるんですが、今回は極力コンパクトにまとめるように頑張ってみたいと思います。たぶん無理だけど。


幼少期(3歳くらい)

 最初の記憶は長野県塩尻市の葡萄畑で遊んでいる光景です。ご近所さんがいたことはうっすら覚えていますので、おそらくそのご近所さんが葡萄畑の持ち主なのでしょう。自分の家族とそのご近所さんの家族以外は記憶にないので、まぁ狭い世界を生きていたんでしょう。
 学び?ンなものあるか。


保育園期(4〜6歳)

 父親が銀行員で転勤族だったので、3年おきに転勤があったはずです。この頃は長野県松本市でした。なぜかは知らないけど、カトリック系の保育園に入れられてキリスト教式の教育を受けた覚えがあります。一方で弟が生まれたり自分らが七五三だったりで神事があり、曽祖母や叔父が亡くなって仏事があり、と宗教的にはかなり多彩でした。子供心ながらに「神様ってのはたくさんいるんだな」と学んだのがおそらくこの頃です。クリスマスプレゼントにジャスコの値札が貼りっぱなしなのに目ざとく気づいて、サンタクロースの存在は両親であることに気づいたのもこの頃でした。ヤなガキですねー。



小学生期(7〜12歳)

 やっぱり父親の転勤で、父の生家のある長野県豊丘村に住まいを移しました。物心着いてから初めての転居であり、お友達とのお別れがあったのですごく悲しかった記憶があります。
 オレが通った小学校は各学年1クラスしかなく、そのクラスメイトも20人いないようなクラスでした。それが功を制したのか、クラスは男女関係なく仲が良かったですね。3-5年の担任がアクが強く、あからさまな左翼派でしたので、オレもその影響をだいぶ受けたと思います。結果として天皇制(特に昭和天皇)や保守派である自民党、戦争を思わせるものに対してはかなり強い嫌悪感を抱くようになり、それは現在も続いています。とはいえ、天皇制というか今の天皇家に対しては、現上皇陛下の功績を通して割と考えを改めています。
 なんでか知らんけど勉強はできた方で、勉強で苦労した記憶はありません。一方で運動は苦手でかなりネガティブな感情を持っていました。にも関わらず、母親に「田舎で暮らすには必須だから」と少年野球に、「泳げないと溺れて死ぬから」とスイミングスクールに強制的に入れられました。当時は嫌で嫌で仕方なかったけれど、野球は観戦を楽しめるようになり、水泳はその後様々なシーンで役立ったので、結果的に母には感謝しています。中日ドラゴンズのファンになったのも少年野球と母がきっかけでした。



中学生期(13-15歳)

 中学は村内にひとつしかなかったので、それまで別の小学校だった連中とも一緒になりました。まぁこの世代の通例に御多分に漏れず、学校はちゃんと荒れてまして。オレみたいに喧嘩が弱い人間は随分と苦労しました。運動部しかなく、かつ部活が必須で、仕方なくバスケ部に入ったんですが、ここがまたヤンキー崩ればかりで、本当に彼らと一緒に部活するのが嫌だったんですよねぇ。部活の時間に色々理由つけては外周走ってたら、いつの間にか長距離走るのが早くなってて、卒業間際には駅伝の学校代表候補に選ばれてました。幸いにして候補止まりで助かりましたが。水泳とかマラソンとか、単純で速筋が必要でないスポーツなら実は割と得意なんだな、と気づき始めたのがこの頃。一方で腰に椎間板ヘルニアの爆弾を抱えたのもこの頃でした。
 勉強はやっぱり苦労することがなかったんですが、期末テストではなぜか100点を取ることはありませんでした。最高99点だったかな? この時勉強で苦労してれば、その後の人生はまた違ったものになったかもしれないなぁ、と思ったのは後述します。



高校生期(16-18歳)

 地元でいちばんの進学校である飯田高校に進学しました。進学校の割には自由な校風で、しかし過去(当時は割と直近)に校内で生徒同士の殺人事件があったことから、それを戒めとして治安にはかなり力を入れた学校でした。
 入学直後、オレは幼馴染に頼まれて水泳班(この学校は部活ではなく班活と呼んでいた)に付き添ったら、なし崩し的にそのまま水泳班に入班してました。自由な校風の中でも特に頭のネジが飛んでいたのがラグビー・剣道・水泳の3班で、結果オレは3年間割と自他共に認めるアホの人だったと思います。この時の経験から、多少ブッとんでると見られていた方が周囲の目は生温かい感じになって色々やりやすいことを学びました。ちなみに水泳の成績は大したことありませんでした。水泳はスイミングスクールとかの育成選手じゃないと勝てない世界だったんですよねぇ。
 高校に入ると途端に勉強で苦労するようになりました。県下でも有数の進学校に入って、周囲に頭のいいやつしかいなくなったのだから当然です。加えて、オレはこれまで勉強するという習慣を身につけておらず、また授業を聞いただけでは理解できないという経験も、授業でメモを取るという経験もしてきませんでした。そりゃ勉強できなくなるわ。努力は習慣化していかないと身につかないと気づいたのは、受験が終わった頃でした。もう少し早く気づけよオレ。



専門学生期(18-21歳)

 子供の頃からTVゲームが好きで、将来ゲームクリエイターになりたいと思っていたオレは、最終的にゲームクリエイターを養成する専門学校に進学しました。ちなみに同級生400人の中で現役・浪人関わらず大学進学を選択しなかったのはオレともう一人らしいです。
 専門学校ってのはバカばっかりなので、勉強では基本的に苦労しませんでした。が、入学3ヶ月後に椎間板ヘルニアで手術と2ヶ月の入院をし、いきなりつまづきます。腰の治療が終わった頃、生活費の足しにと市民プールの監視員のバイトを始めたのですが、学生の身分でバイトに夢中になってしまうという本末転倒をやらかし、結果あまり学校に行かない始末。専門学校は最初から最後まで出席日数に苦労させられました。
 プールの仕事は利用者の命を預かる仕事なので、一般的なイメージと異なり非常に厳しかったです。時給は決して高くなかったんですが、まだ社会人経験のないオレにとって本当の意味での初めての「働く」という経験でした。練習も高校の部活動並みに厳しかったですし、資格もいくつか必要でした。結果として、心肺蘇生法含む応急救護法と、それを用いる心構えを得られたのはオレの人生において大きなプラスでした。この仕事を辞めて普通のオフィスワークに就職した時に、「そうかこの職場では人は死なないのか」と安堵したのを今でも覚えています。



フリーター期(22-23歳)

 結局専門学校を卒業しても就職するあてはなく、そのままフリーターになりました。最初は光通信系のホームページ作成会社でアルバイトをしていたのですが、顧客から預かった写真等の素材の管理があまりにいい加減過ぎたので自主的に整理していたら、いつの間にか素材管理係にされてました。環境は極めて劣悪で、営業の怒号と電話のベル、受話器を叩きつける音が鳴り止まない、それはひどい環境でした。我々はアルバイトでしたが、バイトも正社員がどんどん辞めていくという環境はあまりにも衝撃的でした。ある意味では社会人経験の序盤で本物のブラック企業を見ることができて、かつダメージがない状態で抜け出すことができたのは良かったのかもしれません。光通信系の会社に所属していた事は、後々にもネタにできましたしね。
 そのあと1年くらいは、学生時代に続けていたプールの監視員のバイトに戻りました。たまたま代理とはいえ施設の責任者も体験でき、数々の事故を乗り越え、無事就職に成功してプール監視員を卒業しました。生体で人工呼吸を経験した人はそういないはず(しかも結果的に助けることができた)なので、本当に貴重な体験だったと今振り返っても思います。



1社目期(24-34歳)

 この頃はゲームクリエイターにはなりたいとまでは思っておらず、さりとてコンピュータに関わりたいとはざっくり考えていて、なんかプログラム初心者でも入れる会社を条件に探していたら、フロムエー(今だったら信じられない!)で「未経験OK!二年後には一人前のSEに!」という怪しい触れ込みの求人広告を見つけ、さほど疑いも持たず応募してあっさり受かりました。n次請のSIer(システムインテグレーター)がオレのシステムエンジニアとしてのキャリアのスタートでした。ブラック……というよりは会社自体が未熟で、評価制度とかも雑だったし残業代とかなかったし(途中でできたけど、そのタイミングで管理職に就いたので結局もらえなかった)、今だったら総叩きに遭いそうな会社でしたが、なぜか極めて個性的な社員が多く、その中で好き勝手やらせてもらったという印象があります。定時後に会社をゲーセン化したりとか、キャバクラとか風俗行ったりとか、まぁ色々やりました。悪い遊びはだいたいこの会社で覚えた感あります。法に触れるものはやってませんよ、念の為。この頃の同僚とはいまだに交流があり、折をみては飲み行ったりとかしていますね。
 入社した時の教育係的な先輩が強烈な浦和レッズサポで、その人の英才教育もあって一瞬レッズサポになり、ブッフバルトに監督が交代したタイミングでなんかつまらなくなって、FC東京に鞍替えしました。以降16年間FC東京サポです。シーズンチケット購入も15年を突破しました。今年はまだほんのわずかだけ優勝のチャンスがあるんですが、さてはてどうなることやら。
 非常に良い会社だとは思うんですが、ただ一つ、エンジニアとしての未来だけがなかったです。11年働いて、見切りをつけて退職しました。オレ自身色々活動してみましたが、結局のところ社長の考えを変えるまでには至りませんでした。主張を金に変えてみせないと経営者には響かない、と学んだのはこの悪戦苦闘の日々のおかげでした。



2社目(34-38歳)

 この頃世間はソーシャルゲームブームの真っ只中でした。怪盗ロワイアル、探検ドリランドといったガラケー向けのポチポチゲーが主ですね。これらのゲームは1社目でオレが身につけたWebシステム開発のノウハウで作られているものが多く、忘れかけていたゲームクリエイターの夢がもしかしたらこのタイミングなら叶うかも、とソーシャルゲーム関連会社を中心に転職活動をしました。
 結果、インデックスというインターネット配信サービスの会社に入社することができたのです。オレの役割は複数のインターネット配信サービスのお守りでしたが、インデックスは自社内にソシャゲ部門を持っていたほか、子会社にペルソナ・世界樹の迷宮といったタイトルを持つアトラスというゲーム会社を持っていたので、あわよくばそちらに転籍したい、という思いがありました。


 なんてことを思っていたら、入社半年で会長と社長が粉飾決算で逮捕、間も無く会社は倒産。社員はほとんど辞め、業務委託さんからは次々に契約を切られ、あっという間に自分の周りには誰もいなくなりました。一方オレは、転職したばかりだったのと、倒産会社の顛末に対する物見遊山的な精神があり、会社に残ることにしたのです。給料が保証されていたのも大きかったのですが、これがまずかったですねぇ、さっさと逃げておけばよかったものを。
 この後に起こったのはさらなる地獄です。
 人がいなくなって残されたサービスのほとんどのお守りを押し付けられたオレは、十分な引き継ぎも行われなかったので、何か対応するたびにトラブルを起こしました。そしてありとあらゆる責任がオレに押し付けられる形となったのです。担当した20以上のサービスは最終的に片手で数えられるまでに減り、サービスクローズの手順だけが熟練化していきました。
 やがてインターネット配信サービスの担当を外され、受託案件に配属されましたが、こちらでもサーバ移行に失敗して1週間連続で徹夜したり、長年関わっていた業務委託の開発者がクーデターを起こして訴訟寸前まで発展したり、とまぁ普通に開発案件やってるだけじゃ絶対出会わないようなことのオンパレードでした。
 会社としては、倒産後にアトラス狙いのセガに買収され、そのセガを切り離された残りカスみたいな部門がさらに別の会社に買収され、社名も変えて現在もかろうじて生き残っています。たまに今も在籍しているメンバーと飲むこともありますが、あまり旗色の良い話は聞けません。


 最後の会社の買収があったタイミングで個人的に会社に見切りをつけ、転職活動をはじめました。転職からちょうど4年経っていました。最後の有休消化で自転車担いで四国に行き、お遍路(四国八十八箇所巡り)をやりましたが、あれはしんどかったけど楽しかったですねぇ。ああいうので儲ける方法ってないのかしら?



3社目期(39-40歳)

 3社目に選んだのは1社目と同じSIerでした。ただしこちらは顧客から直で仕事を請ける会社で、会社も東証に上場していました。そこの総務部長がとある居酒屋経由の飲み友達で、うちの会社に来ないかと言われたのがきっかけです。直属の上司となる営業上がりのマネージャを窓口に採用面接を行い、結果この会社に入社しました。ITエンジニアが転職するならITエンジニアじゃない人間の言葉には絶対に耳を貸すな、という教訓を得られたのはこのタイミングだったなぁ、と今振り返って思い出します。
 なんていうか、入社時の約束を何一つ守らない会社で上司でしたねぇ。仕事の内容も嘘、給料も入社時の約束した金額に全然足らない、本当に何から何まで嘘だらけでした。顧客企業に2年間常駐してたこともあって、自社の印象は見栄っ張りの薄っぺらい会社だなぁくらいしかありません。株式上場してたので経費がデタラメにかかるし、見栄を維持するために設備投資も身の丈に見合わないほど多かったような印象を受けました。上場しているSIerは経営者のキャリア装飾の道具に過ぎない、という学びはこの会社に所属していた時に得たものです。


 それでも2年半も所属していたのだから、我ながら我慢強いなぁと感心しています。



フリーランス期(41歳-現在)

 そんなこんなで今年の7月にフリーランスになりました。現在は自分がこれまでITコミュニティで培った人脈を通じて仕事をいただいて生活をしています。フリーランス生活については最初の納税が終わってから詳しく書きたいと思うので、ここでは控えます。会社員の頃より、人の善意にも悪意にもダイレクトに触れる機会が多く、結果として会社員の頃より色々な影響を受けるな、というのがここ半年の実感です。やはりトラブルはそれなりにありますが、12/03(火)現在においては概ね楽しく仕事できているんじゃないかと思います。



これから

 オレが18で上京する時に、ひとつだけ決意したことがあります。


「故郷の土になる、そのために必ず帰ってくる」


 信州のあの土地が好きでしたし、長男としての責任もありました。上京以降ずっと、システムエンジニアとしてなんとか生計を立てた上で故郷に帰れないか、故郷のために働くことはできないか、と考え続けていました。昨今はリモートワーク(テレワーク)が発達し、遠隔地でも都会と変わりなく仕事ができるようになったことで、その念願が叶う準備が整ったと判断しました。半年前にフリーランスに転身したのはそのためです。
 また、2020年4月から始まるプログラミング教育の小学校での義務化も帰郷を決意するきっかけになりました。都会と違いITエンジニアの少ない田舎では、どうしてもIT知識に明るくない先生たちをサポートできる人が少ないのです。なんとか自分がお手伝いできたら、と考えています。
 幸いにして弟が略式にでも実家を継ぐ宣言をしてくれたらしいのですが、一方で今年の初めに母方の祖父が亡くなり、母の実家が空き家になってしまったので、そちらに住もうかと思っています。オレは現時点で独身なので、残念ながら末代を数十年遅らせる程度にしかならないかもしれませんが、自分なりにやれることはやっておきたいと思います。


 この年末年始を帰郷のタイミングをし、今はその準備を進めているところです。



最後に

 やっぱりダラダラと長くなってしまいました。人生の半分以上を東京で過ごしたわけですが、そこから去り帰郷するというタイミングで、簡単にでも自分の半生を棚卸できたのは良かったんじゃないかと思います。


 「未来を先読みして点と点を結ぶことはできません。後から振り返って初めて結ぶことができるのです。従って貴方達は将来点と点がどこかで繋がると信じなくてはいけないのです。」


 故スティーブ・ジョブズの有名な演説の一説です。改めて自分の半生を振り返った時に、まさに点と点を後から結ぶような人生だな、と思いましたし、えてして人はそういう風にしか生きられないのかもしれません。多分今後もオレはきっとそうやって生きるんでしょう。その瞬間瞬間に思うこと・感じること・やるべきことを全力でこなし、後で何か意味付けできる人生にできたらいいのかな、なんてこの記事を書き終わった今はそう考えています。