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ミッションたぶんPossible

どこにでもいるシステムエンジニアのなんでもない日記です。たぶん。

ポケモンGOでポケモンハントのついでに多磨霊園で偉人に会ってきた。

雑記

はじめに

 みなさん、「ポケモンGO」遊んでますか? リリースされて早一週間、既に社会現象になるほど人気なのはご周知の通り、一方で社会問題になるような事態も引き起こしていたりと、なにかと話題に事欠かない状態です。既に飽きて放り出してしまった人もいるかもしれませんね。大丈夫、世田谷公園とか新宿御苑とかにたむろってる今まさにドハマりしてる人達も、どうせ夏休み明ける頃にはみんな飽きてるから!


 さて、それはさておき、先日7月26日にオレは誕生日を迎えました。ありがとう!そして、ありがとう!お祝いの言葉は無期限で受け付けますが、「いい歳してポケモン狩りとかしてんじゃねーよ!」とか正論をぶつけるのは、14歳と576ヶ月のガラスハートが傷つくので絶対に止めましょう。
 で、誕生日と言えば免許更新。今週頭に有休を取って府中免許センターに更新に行ってきました。その待ち時間で気付いたのが……



多磨霊園、ふだん誰もいない割にポケスポット多すぎじゃね!?


 元々「ポケモンGO」のポケスポットは「Ingress」という位置情報を利用した陣取りゲームから引用しているとのこと。「Ingress」ではポケスポットに相当するものをユーザーが追加申請でき、運営に承認されれば実質ユーザー自身の手で増やすことができるそうです。多磨霊園にポケスポットがいっぱいあるということは、きっとIngressに関わる誰かがここに呼びたがってるってことなんでしょうねぇ……。


 そんな意図をおもんばかり、今回オレはこの多磨霊園ポケモンハントをすることにしました。以下ルール。

  1. 多磨霊園に眠る偉人(100人超!)のお墓を全てお参りする
  2. 上記1の最中にとびだしてきたポケモンは全てゲットする
  3. 多磨霊園のポケスポットを可能なかぎり全てまわる


 多磨霊園に眠る偉人とお墓の場所は、以下のサイトを参考にしました。当記事に記載した偉人の説明も、そちらのサイトから全て引用させていただいています。このサイトは多磨霊園最寄りの「にしやま」さんという懐石料理屋さんが運営管理されているようです。

多磨霊園とは

 その前に簡単に多磨霊園の確認。

多磨霊園は、東京都府中市および小金井市をまたいだ場所にある都立霊園。日本初の公園墓地であり、以後の日本の墓地のありかたのひな型となった。面積は都立霊園で最大の128万平方メートル『40万坪』『東京ドーム27個分』。関東大震災直前の1923年、東京市により、北多摩郡多磨村に開園。当初は多磨墓地といい、1935年に多磨霊園と改称された。緑の多い公園墓地であり、被葬者の絶対数が多いこともあり有名人の墓地も多い。
(Wikipediaより)

  • 公営の墓地(東京都が運営)
  • 無宗教
  • 大正時代に開園
  • 有名人の墓地が多い

 ざっくりこのくらいのことを把握しておけばいいと思います。東京ドーム27個分という広大な土地は、1〜26区に分けて管理されています。墓の種類は大きく分けて

  • 1種
  • 2種
  • 特種

という3パターンに分けられています。昔は1種が士族・華族しか使用できない、という制限があったみたいで、事実1種のお墓は広い通りに面した目立つ場所に、大きな土地でデデンと墓が建てられています。2種は庶民向けですね。今は1種・2種の区別はありませんが、そもそも1963年(昭和38年)に多磨霊園の広大な土地を使い切っているので、無縁仏の墓地整理などで空きが生じないと新しく墓を設けられない状況なのだそうな。(その割にけっこう空きがあったような気がするが……)
 特種は、山本五十六東郷平八郎のような特別な数人が祀ってあるだけです。本当にスーパーレア。


名誉霊域



 ポケスポット。名誉霊域、つまり、いわゆる特種のお墓があるエリアを示しています。ここに眠るのは、東郷平八郎山本五十六、古賀峯一の3人だけです。当時軍人は偉かったんでしょうねぇ。


池田宏記念日



 池田宏は明治・大正・昭和期の官僚で京都府知事や神奈川県知事を務めていました。墓も見てくりゃよかったな。


岩谷 莫哀 (1888〜1927)


大正期の歌人。短歌雑誌「車前草」「水甕」「桜草」「珊瑚礁」などに関係し、のち「水甕」の経営に専心。歌集「春の反逆」「仰望」「岩谷莫哀短歌全集」などがある。

(墓所位置:2区1種2側19番)


 荒れ果ててますねぇ、有名人に分類されてても古すぎたり人気がなかったりするとこんな感じです。


安井 誠一郎 (1891〜1962)


昭和期の官僚。内務省から、県警部長、東京市局長、宇垣一成の秘書官、局長京畿道知事、拓務相局長、新潟県知事。退官して東京市電気局長となる。戦後、厚生次官、東京都長官に起用され、1947年東京都知事に立候補・当選、3期つとめた。

(墓所位置:2区1種2側37番)


 近くにある銅像がポケスポットになってます。




鳥居龍蔵記念日



 鳥居龍蔵は明治〜昭和の考古学・民俗学者です。

徳川 夢声 (1894〜1971)


大正・昭和期の芸能家・随筆家。大正の初め映画の説明者(活弁)となる。外国映画の説明を主に受け持ち、淡々と文学的に説明しインテリ層の支持を受けた。映画はトーキーの時代となり失業。戦後、漫談、著述などに活躍する。

(墓所位置:2区1種7側48番)


 ぶっちゃけると、写真は別の人のお墓ですね。この徳川夢声さん、本名は「福原駿雄」というらしいんすよ。「徳川」で探してたから見つからず、仕方なく名前のよくわからない荒れ果てた墓地が1つだけ区側内にあって、それをオレが勝手に「ここは徳川夢声さんの墓!」としちゃっただけです。ホント芸名とか勘弁してほしい。



中村 歌右衛門 (1865〜1940)



歌舞伎俳優(5代目)。明治の団菊、9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎亡き後の歌舞伎界を統率。また坪内逍遙作「桐一葉」で淀君を演じ、新境地を開いた。

(墓所位置:2区1種13側5番)


 さすが梨園。お墓もゴージャス。

矢内原 忠雄 (1893〜1961)


大正・昭和期の経済学者。一高時代から内村鑑三及び新渡戸稲造に私淑し、信仰上、思想上大きな影響を受けた。東大助教授、教授となり植民政策を講義。1937年中央公論に発表した「国家の理想」が反戦思想として右翼、軍部等の攻撃の的となり、その年辞職。戦後東大に復帰、社会科学研究所初代所長、経済学部長、教養学部長を歴任し、総長となる。東大ポポロ事件の際は警察に対し毅然たる態度を示し、激動期の大学の自治と学問の自由を守るため努力した。

(墓所位置:2区2種1側19番)



上原 謙 (1909〜1991)


昭和期の俳優。本名は池端清亮。1935年、立教大学卒業と同時に、「若旦那・春爛漫」で松竹からデビュー。メロドラマの美男スターとして、「愛染かつら」三部作などで人気を集めた。戦後の代表作は「めし」「晩菊」「夜の河」

(墓所位置:2区2種11側2番)


 こちらも芸名。というか、ここで初めて芸名の存在に気づきました。なんだよ芸名って!?村上春樹みたいに本名で活動しろよ!!

矢島 楫子 (1883〜1925)


明治・大正期の女子教育者。上京して教員伝習所に学ぶ。小学校、女学校教員、桜井女学校校長。キリスト教徒となり日本基督教婦人矯風会創立。女子学院院長。廃娼運動に奔走、国際軍縮会議参加。晩年も婦人参政権獲得期成同盟会に加盟、生涯を女子教育、婦人運動に尽くした。

(墓所位置:3区1種1側20番)


 お墓というにはあまりに立派すぎる。石碑の域だ。


上杉 慎吉 (1878〜1929)


明治・大正期の憲法学者。ドイツに留学、その憲法学説は穂積八束の影響が強く、君主主権による絶対主義をとる。「国体に関する異説」を発表し、美濃部達吉天皇機関説を攻撃、天皇制絶対主義勢力の理論的、実践的指導者であった。

(墓所位置:3区1種3側9番)



小泉 信三 (1889〜1966)


昭和期の経済学者・教育家。渡欧して経済学を学び、帰国後慶大教授。「価値論と社会主義」を発表し河上肇らと対立、マルクス主義批判の立場を貫く。慶大塾長として大きな社会的影響をもった。戦後は皇太子明仁親王(現天皇)の教育にあたった。

(墓所位置:3区1種17側3番)

丸山敏雄記念碑



 冒頭の有名人リストにはないんですが、妙に自己主張激しかったんで撮影した次第。墓の横に馬鹿でかい石碑があって、そこがポケスポットになってました。倫理研究所というところの所長だった人みたいっすね。




 全然関係ない無縁仏。多磨霊園ウロウロしてると、こういうのに出会うのも珍しくないです。


楠山 正雄 (1884〜1950)


大正・昭和期の児童文学者・演劇研究家。島村抱月の下で「文芸百科全書」編集、のち冨山房の「新日本」編集、「模範家庭文庫」編集、「世界童話宝玉集」「日本童話宝玉集」などの執筆。また児童文芸雑誌「赤い鳥」などに古典や昔話の再話を発表。早大で演劇を講じ、また文芸協会や芸術座に参加した。

(墓所位置:3区1種32側17番)



藤田 豊八 (1869〜1929)


明治・大正期の東洋史家。東亜学院創立、通信教育を興し、江湖文学創刊。清国の学者羅振玉と東文学社設立、広州に赴き、広東、広西省の教育事業に協力、蘇州に師範学堂を設立。辛亥革命の際、羅を助け京大客員講師に迎える。再び広州に赴き嶺南日報創刊。帰国後早大、東大、台北大教授を歴任した。

(墓所位置:3区1種34側2番)


 荒れ果ててるってことは、現代において人気がないってことなんでしょうな。心がどこかで軋みます。


船橋 聖一 (1904〜1976)


昭和期の小説家・劇作家。河原崎長十郎らと劇団心座を結成、多くの戯曲を書き才能を示した。その後明大で教えながら小説も書き始めた。雑誌「行動」に加わり行動主義・能動精神運動を進め、「木石」で文壇に認められた。戦後も旺盛な創作活動を示し、「雪婦人絵図」「花の生涯」等の代表作がある。相撲愛好家で、横綱審議委員会委員長もつとめた。

(墓所位置:3区2種6側3番)


 お墓の表記を見るかぎり「船橋」ではなく、「舟橋」が正しいようです。





 多磨霊園でバカンス!? ……ではなく、作業中の業者さんです。



 こちらは納品前かな?


南原 繁 (1889〜1974)


大正・昭和期の政治学者。内務省退職後、渡欧、帰国して東大教授となり政治学を講じる。内村鑑三の無教会派プロテスタントで、自由主義的立場を守り戦時中も軍部に迎合しなかった。戦後東大総長。講話問題では吉田茂首相と対立。憲法問題研究会に参加、護憲の学問的支柱となった。

(墓所位置:3区2種11側2番)


岩田鶴皐碑



 オレに詳細がわかるわけがなかろう。ともかくポケスポット。


懇心平等万霊供養塔



 旧日本陸軍731部隊の精魂塔。第二次大戦中の暗部中の暗部です。


横光 利一 (1898〜1947)


昭和期の小説家。菊池寛を知り文芸春秋創刊の時同人、「日輪」を発表。川端康成らと「文芸時代」を創刊、伝統的私小説プロレタリア文学に対抗し新しい感覚的表現を主張。「機械」「寝園」「紋章」では自意識過剰に悩む知識人を心理主義的手法や四人称の設定によって追求、また「家族会議」などを発表。

(墓所位置:4区1種39側16番)


 げんきだせよ、きっといいことあるよ、と言いたくなるくらいの荒れ模様。現代で人気ないとこうなっちゃうんすね。


上司 小剣 (1874〜1947)


明治・大正・昭和期の小説家。小学校の代用教員などを経て、読売新聞社に入社。在社中に徳田秋声正宗白鳥幸徳秋水白柳秀湖等と知り合い、自然主義的写実小説「鱧の皮」で文壇的地位を獲得。ほかに「木造」東京」「U新聞年代記」などがある。

(墓所位置:4区1種57側35番)


 せめてこうでありたい。


小山内 薫 (1881〜1928)


明治・大正期の劇作家・演出家。詩集「夢見草」「小野のわかれ」を書く。小説家としては短編から自伝的長編小説「大川端」で才能を示す。自由劇場、築地小劇場創立。「第一の世界」「西山物語」「亭主」「奈落」などの戯曲のほか翻訳も多く、劇評家・演出家としての業績も大きい。松竹キネマに入り映画界にも足跡を残し、日本の新劇界の先駆者的存在である。

(墓所位置:5区1種1側37番)


 お、オレでも名前くらいは知ってる人だ!「おさない かおる」って読むんすね。

水上 滝太郎 (1887〜1940)


明治・大正・昭和期の小説家・評論家。慶大在学中三田文学が創刊されると、「山の平の子」を発表、新進作家として知られる。渡米し経済学を学び、帰国後保険会社に勤務、大阪に住む。「大阪」「大阪の宿」などの作品はその体験から生まれた。評論、随筆、小説、戯曲を書き続け、生涯実業家と文学者の両面の生活を続けた。

(墓所位置:5区1種16側6番)


藤山雷太翁顕彰碑



山崎 直方 (1870〜1929)


明治・大正・昭和期の地理学者。帝国大学理科大学で地理学を学び、地理学研究を命ぜられてドイツ、オーストリアに留学。帰国後、東京高師、理科大教授となり、地理学科を創設、また日本地理学会を作った。地形学にも興味を持ち、日本アルプスに氷河作用があったことを主張。学術の国際交流にも尽くした。

(墓所位置:6区1種2側10番)



岡田 嘉子 (1902〜1992)


昭和期の俳優・演出家。1919年初舞台。その後、「出家とその内弟子」の芸妓楓で脚光をあびる。日活入社後、竹内良一と失踪、結婚。岡田嘉子一座を結成。1938年、杉本良吉と2人で樺太国境を越え、ソ連に入る。戦争中、対日放送のアナウンサーとなり戦後、モスクワ放送局に移る。ルナチャルスキー演劇大学卒業公演「女の一生」を演出。再々帰国し、演出、舞台出演を行い、映画「男はつらいよ」などにも出演。

(墓所位置:6区1種7側53番)


 かなり波乱万丈の人生を送られたみたいですね。ソ連で拷問とかも受けたらしいんですが、それでもかなりお年を召すまでご存命だったようです。




 こちら全然関係ないお墓。「アリス」はペットでしょうか、きっと愛された大事な家族だったんでしょうねぇ。


徳富 蘇峰 (1863〜1957)


明治・大正・昭和期の評論家。熊本洋学校同志社大に学ぶ。上京して民友社を創立、雑誌「国民の友」「国民新聞」を創刊。進歩的平民主義の立場に立つジャーナリストとして知られた。貴族院議員となったが、その後政界を離れ、評論家として活躍。主著に「近世日本国民史」がある。小説家徳富蘆花は弟である。

(墓所位置:6区1種8側13番)



大内 兵衛 (1888〜1980)


大正・昭和期の経済学者。森戸事件で東大を退いたが、復職し教授となる。教授グループ事件で有沢広巳らとともに検挙され、辞職。戦後東大に復帰。退官後、法政大総長。平和問題懇親会メンバーとして平和擁護や憲法擁護運動などにも活躍。マルクス経済学の立場から財政学を体系化する。著書に「財政学大綱」などがある。

(墓所位置:6区1種11側11番)



宇垣 一成 (1868〜1956)


大正・昭和期の陸軍軍人(大将)。清浦奎吾内閣の陸相、以後加藤高明内閣、岩槻礼次郎内閣、浜口雄幸内閣の陸相となる。文麿内閣の外相兼拓相となり、対中国和平工作に従事するが、効果が上がらず、興亜院設置に反対して辞職。1953年の参院選では全国区最高点で当選した。

(墓所位置:6区1種12側1番)



横井 時敬 (1860〜1927)


明治・大正期の農学者・農政学者。「栽培汎論」は伝統農法の再評価と西洋農法の適用を説いた名著。福岡県立農学校に赴任、塩水選種法発明。帝国大学農科大学教授。農政理論家として活躍、資本主義と農業を対立的にとらえ、農業防衛の武士道の継承者を地主にみる農本主義を説き、また社会主義に反発し、農民教育に努力した。

(墓所位置:6区1種12側12番)


 これ、本当に横井時敬さんかイマイチ自信ないっすねぇ。記憶が定かじゃない。



田中 義一 (1853〜1929)


明治・大正期の軍人(大将)・政治家。日露戦争に従軍後、ロシアに留学、日露戦争では満州軍参謀。原、山本内閣の陸相」、のちに政友会総裁となり首相となる。普通選挙による最初の総選挙を実施、また、3次にわたる山東出兵を強行。張作霖爆死事件の際、辞職した。

(墓所位置:6区1種16側14番)


 軍人&時の首相。タイミングよく老夫婦がお墓詣りされていたので、遠目からの撮影とあいなりました。



 田中義一さんのお墓はポケスポットになってるんですが、全然違う場所(10区)に座標があります。


尾上 柴舟 (1876〜1957)


明治・大正・昭和期の歌人・書家。金子薫園と共に「叙景詩」を出版、明星派に対して叙景詩運動を進め、車前草社を結成。「静夜」「永日」「白き路」「間歩集」などの歌集がある。書家としても有名で「平安朝時代の草仮名の研究」「歌と草仮名」などの著書がある。

(墓所位置:6区1種16側23番)


 げんきだしてくださいよ、きっといいことありますよ。もう死んでるけど。


山本条太郎胸像碑



 ポケスポット。山本条太郎は実業家・政治家で、三井物産常務取締役や南満州鉄道総裁等で活躍した人だそうな。

服部金太郎翁碑



 ポケスポット。服部金太郎さんはセイコーの創始者らしいです。


多磨霊園噴水塔



 多磨霊園のシンボル塔だったみたいです。今は水は出ていないので、噴水だったと知る人も少ないでしょうね。


斉藤 実 (1858〜1936)


明治・大正・昭和期の海軍軍人・政治家。第1次西園寺内閣の海相、以来5代の内閣の海相をつとめる。ジュネーブ軍縮会議に出席、5・15事件後挙国一致内閣を組織したが政党、軍部、官僚三者均衡の上に政権維持をはかるその中間内閣的姿勢は軍部、右翼陣営の反感を強めた。2・26事件で襲撃され死亡。

(墓所位置:7区1種2側16番)


 たぶん多磨霊園が出来たタイミングのせいなんでしょうが、大戦中の軍人の墓はどれも異常に大きいです。あと、妙に階級を強調する傾向にあります。当時何が最も重要だったのか、なんとなく察することができますね。


新渡戸 稲造 (1862〜1933)



明治・大正・昭和期の教育者。札幌農学校卒業、東大中退後渡米、帰国後札幌農学校教授、京大教授、一高校長、東京女子大学長などを歴任。国際連盟事務局次長など国際人としても活躍。またクリスチャンとして国際親善に貢献した。著書に「農業本論」「修養」特に英文の武士道は有名である。

(墓所位置:7区1種5側11番)


 5,000円札の人ですね。お墓の近くに銅像があります。


東郷 平八郎 (1847〜1934)


明治・大正期の海軍(元帥)。薩英、戊辰戦争に参加。イギリス留学。日露戦争時には、旅順港封鎖作戦を行い、ロシア海軍極東艦隊を公開海域で、バルチック艦隊日本海海戦で全滅させた。ロンドン軍縮条約の承認にあたり強硬に反対。軍の元老的存在であった。のち東宮学問所総裁になった。

(墓所位置:7区特種1側1番)


 東郷平八郎のお墓はポケスポットにもなってるんですが、ポケスポットの座標が実際のお墓の位置とずいぶん違うんですよねぇ。仕事が雑だ。




 あとで通りかかったら、東郷平八郎の墓にルアーをセットした人が!誰だこんな人気のないところで課金したやつは!?……と思って見に行ったら特定余裕でした。


山本 五十六 (1884〜1943)


大正・昭和期の海軍軍人(元帥)。日露戦争従軍後、軍艦乗組をへて砲術学校教官。ハーバード大に学ぶ。海軍教官、第1次航空戦隊司令官等を歴任後、連合艦隊司令長官となり、旧来の海軍の作戦に変更を加え、また米・英不可分を主張し、対米戦を無視した対南方武力行使は不可能であると考え、ハワイ真珠湾作戦を立案。ソロモン諸島上空で戦死した。

(墓所位置:7区特種1側2番)


 スーパー有名人。軍人、しかも元帥なんで墓も特種という特別な場所にあり、墓自体もとてもでかいです。ソロモン諸島上空で戦死、ってことは、ここに遺体はないんでしょうなぁ。
 山本五十六のお墓もポケスポットになってますが、こちらは座標がバッチリ合っています。




古賀 峯一 (1885〜1944)


大正・昭和期の海軍軍人(元帥)。青葉・伊勢の各艦長、第7艦隊練習艦隊の司令官、長官、その後第2艦隊、支那方面艦隊、横須賀鎮守府の長官を歴任、山本五十六戦死後の連合艦隊司令長官となったが飛行機事故で殉職し、元帥となった。

(墓所位置:7区特種1側3番)


 軍人、しかも元帥なんで、やっぱり特種のお墓なんですが、東郷平八郎山本五十六と比べるとこじんまりしてます。殉職後の特進で元帥になったから、という違いなんでしょうか。


西園寺 公望 (1849〜1940)



明治・大正・昭和期の政治家。維新政府参与に就任。フランス留学後、明治法律学校を創立。中江兆民らと「東洋自由新聞」を発刊、政界入り後は各国公使を歴任、文相、政友会総裁となり、日露戦争後、桂太郎と相互に政権を担当。パリ講和会議に出席、のち元老として大正末期から昭和にかけて重きをなした。

(墓所位置:8区1種1側16番)



高橋 是清 (1854〜1936)


明治・大正・昭和期の政治家・財政家。販留学生として渡米、帰国後文部省にはいる。のちに日本銀行に入り、日露戦争中から戦後にかけて外債募集に成功、日銀総裁になる。山本内閣の蔵相となり、原敬首相暗殺後首相となる一時政界を離れたが、昭和初期の金融恐慌には日本経済安定のため尽力した。2・26事件で暗殺された。

(墓所位置:8区1種2側16番)



吉岡 弥生 (1871〜1960)


明治・大正・昭和期の医者・女子教育者。東京で医院開設、わが国最初の女医養成期間として、東京女子医学校創設し校長。昇格した女子医専の校長。戦時中東京婦人会委員長、大日本婦人会顧問など。敗戦後公職追放されたが、解除とともに東京女子医大(医専の後身)の学頭となった。

(墓所位置:8区1種7側9番)



三好 学 (1861〜1939)


明治・大正・昭和期の植物生理・生態学者。ドイツに留学、プフェッファのもとで菌糸の屈性研究。東大教授。ヨーロッパの近代的な植物生理学や植物生態学をわが国に普及、その応用方面も研究。「生態学」の語を訳出。天然記念物の調査及び保護に尽力した。

(墓所位置:8区1種10側26番)



吉野 作造 (1878〜1933)


明治・大正・昭和期の政治学者。欧米留学後発表した「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」は大正デモクラシーの理論的基礎となる。朝日新聞社入社、連載記事が筆禍を受けて退社、明治文化研究会設立、また東大新人会、社会民衆党の結成などに活躍した。

(墓所位置:8区1種13側18番)

内村 鑑三 (1861〜1930)


日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。

(墓所位置:8区1種16側29番)


 冒頭の有名人リストには無かった有名人。たまたま見つけました。ポケスポットにもなっていますが、座標ずれまくりです。ポケスポットを当てにしてお墓探そうとすると壮絶に痛い目見るでしょう。



三宅 やす子 (1890〜1932)


大正・昭和期の小説家・評論家。昆虫学者三宅恒方と結婚。夏目漱石などに師事し小説を学ぶ。夫を失い文筆で子供を育てる決心をし、私小説的作品や評論を書く。雑誌ウーマン・カレントを創刊。主婦の立場から女性問題を平易かつ自由率直に論じ、執筆、講演に活躍。小説では「奔流」が代表作。評論集に「未亡人論」「生活革新の機至る」などがある。

(墓所位置:8区1種16側34番)


 形も特殊だし名前も妙なところに彫ってあるし、とにかく探しづらかったです。普通の墓にしてくれ、頼むから。


児玉 源太郎 (1852〜1906)


明治期の陸軍軍人(大将)。第4次伊藤内閣の陸相、つぎの第1次桂内閣にも留任し、一時内相と文相を兼任。日露戦争に出征し、満州軍総参謀長として大山総司令官を補佐、智謀をうたわれた。後に参謀総長、また南満州鉄道株式会社創立委員長となった。

(墓所位置:8区1種17側1番)



井下 清 (1884〜1937)


多磨霊園創始者。東京市、東京都の都市公園、葬祭施設の造成、運営に携わる。都市緑化、造園一般の分野でも活躍。白澤保美からドイツのハンピエツナーによる風景墓地の研究発表を贈られ、研究の動機となる。わが国始めての公園墓地として多磨霊園の建設に携わった。

(墓所位置:8区1種18側18番)



有田 八郎 (1884〜1965)


昭和期の外交官。外務省に入る。広田内閣、第一次近衛内閣、平沼内閣、米内内閣の外相となる。戦後は東京都知事選に社会党候補として出馬したが落選。

(墓所位置:9区1種1側2番)



大平 正芳 (1910〜1980)


戦後の政治家。第1次池田内閣で官房長官、第2次・第3次池田内閣の外相、以後第2次佐藤内閣で通産省田中角栄内閣で外相、蔵相、三木内閣で蔵相となる。首相となった後、衆参ダブル選挙の選挙運動中に死去。

(墓所位置:9区1種1側15番)


 このお墓もポケスポットなんですが、やっぱり座標がずれてます。たいがいにせーや。



中島 知久平 (1884〜1949)



大正・昭和期の実業家・政治家。中島飛行機(株)を創立、戦争拡大とともに軍用機生産で社業拡張、戦闘機隼はじめ飛行機の3割近くを独占生産。この間政界にも進出し、政友会を二分して革新派の総裁になる。終戦直後、東久邇内閣で軍需相、商工相。

(墓所位置:9区1種2側3番)


 豪商で政治家とあって、墓もでかいです。えらい日当たりが良かったな。


天野 為之 (1859〜1938)



大正・昭和期の経済学者。経済学をフェノロサに学び、とくにJ・S・ミルを研究した。東京専門学校(早大)の創設に参加、以後その教職にあった。1890年大隈重信の改進党から第1回の衆議院議員に当選。町田忠治らとともに東洋経済新法を創刊した。

(墓所位置:9区1種9側1番)



岡田 啓介 (1868〜1952)


大正・昭和期の海軍軍人(大将)・政治家。田中義一内閣、斉藤実内閣の海相。1934年首相在任中、2・26事件で襲撃されたが、あやうく助かり、内閣総辞職。東条内閣倒壊工作では中心人物となり、天皇制存続のための和平工作を画策した。

(墓所位置:9区1種9側3番)



西郷 従道 (1843〜1902)


明治期の軍人・政治家。隆盛の実弟。山県有朋と渡欧後、兵制の制定に尽力。西南戦争では兄隆盛に加担しなかった。歴代内閣の海相、内相に就任、晩年元帥になり、軍、政界に重きをなした。

(墓所位置:10区1種1側1番)


 西郷隆盛の弟なのか! 略歴を見ると兄貴と違ってうまく立ち回った印象です。そういえば西郷隆盛って、どうして人気なんでしょうな?乱暴な言い方をすれば「クーデターを起こしたテロリスト」とも言えなくも無いんですが。犬か、犬のせいか。


平沼 騏一郎 (1867〜1952)


明治・大正・昭和期の司法官僚・政治家。検事総長、第2次山本内閣の法相。復古的日本主義による国民強化を目指して国本社を創立。首相の在任中国民精神総動員を強化したが、独ソ不可侵条約締結の時、複雑怪奇の迷句を残して退陣、第2次近衛内閣国務省、内相。無条件降伏反対の立場をとった。

(墓所位置:10区1種1側15番)


北原 白秋 (1885〜1942)


明治・大正・昭和期の詩人・歌人。「明星」に詩・短歌を発表、雑誌「スバル」を創刊。詩集「邪宗門」で詩人としての地位を確立し、異国情緒あふれる感性豊かな作品を次々と発表した。また「赤い鳥」に平明な芸術性高い童謡を掲載、晩年は作風を一変し、幽玄の境地を求めた。歌集は「雲母集」、詩集は「思い出」、歌謡「からたちの花」が有名である。

(墓所位置:10区1種2側6番)


 オレでも知ってる有名人。歌人というのは知ってるんですが、実際に彼が作った歌は、学生時代に教科書で読んだことあるか無いか、くらいです。



有島 武郎 (1878〜1923)



大正時代の小説家。札幌農学校在学中、内村鑑三の指導の下に熱心なクリスチャンとなる。外遊後は母校で教鞭をとった。その間、ホイットマンツルゲーネフトルストイらに熱中し、雑誌「白樺」の同人になり、作家生活に入る。小説「或る女」「カインの末裔」、評論「愛は惜しみなく奪う」などを発表し、文壇の地位を確保した。

(墓所位置:10区1種3側10番)


 銅像(?)が酸性雨で溶けてて表情がよく分からなくなってました。奥様の方がまだハッキリしてるかな。

長谷川 町子 (1920〜1992)


戦後の漫画家。田河水泡に師事。代表作「サザエさん」は,まず昭和21年5月から福岡の夕刊フクニチ紙に、ついで昭和24年12月から朝日新聞に掲載され、また、近年、テレビでも放映され、庶民性ある家庭漫画として人気を博す。「エプロンおばさん」「意地悪ばあさん」も人気が高い。

(墓所位置:10区1種4側3の1番)


 未だにお茶の間を賑わしているアニメは彼女の作品です。サザエさんっぽい何かがお墓にあるかなぁと期待してたんですが、残念ながらそういうことは無かったです。




 長谷川町子とは全く関係ない、ただの空き地。と思いきや、立て看板を見る限り誰かが所有してるみたいです。何のためなんだろ?木を保全するためなのか、木自体がお墓なのか。うーむ。


木々 高太郎 (1897〜1969)


昭和期の小説家・大脳生理学者。慶大教授をつとめた。海野十三のすすめで処女作「網膜脈視症」を発表、長編「人生の阿呆」で直木賞受賞。「新月」で探偵作家クラブ賞受賞。探偵作家クラブ会長。

(墓所位置:10区1種6側3番)


 この人は詩人さん。木々高太郎は執筆名で、本名は「林髞(はやしたかし)」と言うんだそうな。また調べるのが大変なパターンでした。



 木々高太郎さんとは全く関係のない、荒れ果てたお墓。もうお墓だと認識することも難しいですな。


鈴木 梅太郎 (1874〜1943)


大正・昭和期の生化学者。渡欧し、蛋白質の研究をした。帰国して盛岡高等農林学校、東大農学部教授。米ぬかからオリザニン(ビタミンB1)の抽出に成功、米を使用しない合成酒、グルタミン、乳酸を製造。理化学研究所を創立。

(墓所位置:10区1種7側8番)


馬場 えい一 (1879〜1937)



大正・昭和期の財政家・政治家。法制局長官、勧業銀行総裁。広田内閣の蔵相、増税によって、膨張する軍事費中心の財政支出をまかなう新方針を出す。この急激な転換は財界に不安を呼んだが、後に林内閣の蔵相により軌道修正がなされた。近衛内閣の成立で軍部の強い推薦により内相に就任。(注:名前のえいは金へん、つくりは英の字です。フォントにありません。)

(墓所位置:10区1種7側12番)


 金の匂いがプンプンする政治家だったみたいです。偉いから銅像があるのか、金があるから銅像を作ったのか。さてはて。



 こっちは馬場えい一さんとは打って変わった、小さなお墓。こういうお墓が一番困るんですよ、ちゃんとだれの墓かしっかり掘っとけよ。感謝とか愛とか意味無い言葉を墓に掘るんじゃねえ!

尾崎 秀美 (1901〜1944)



昭和期の社会主義者・ジャーナリスト。父の影響で中国の歴史・文化に親しむ。朝日新聞に入社、上海特派員として中国滞在中、リヒアルト=ゾルゲのコミンテルン諜報機関に参加。第1次近衛内閣の嘱託として中国政策に関与していたが、国際スパイとして検挙され、治安維持法・国防保安法・軍機保護法などの違反を理由にゾルゲとともに処刑された。

(墓所位置:10区1種13側5番)



山室軍平句碑



 山室軍平さんは明治〜昭和のキリスト教伝道師で、救世軍の日本支所を設立・活動されてた方だそうです。句碑に掘られた文章は聖書の一文みたいですね。


三島 由紀夫 (1925〜1970)



戦後の小説家・劇作家。学習院中等科在学中に「花ざかりの森」を出版。戦後、川端康成の推薦で「煙草」「岬にての物語」などを発表。「仮面の告白」「愛の渇き」などで作家的地位を得た。「禁色」「潮騒」「金閣寺」「近代能楽集」などを発表。楯の会を結成、同会の学生らと市ヶ谷の自衛隊に乗り込み割腹自殺した。

(墓所位置:10区1種13側32番)


 スーパー有名人の三島由紀夫。あまりに壮絶な最期はわざわざここに記す必要はないでしょう。本名は平岡公威(ひらおか きみたけ)という、三島も由紀夫もないカスリもしない名前です。が、この人は有名すぎて調べるの楽チンでした、こういうのばっかりだったらいいのに。


川路 柳虹 (1888〜1959)


明治・大正・昭和期の詩人・美術評論家。口語体自由詩「塵溜」を発表して注目された。七五調などの古い詩型を破り言文一致の口語体による新しい詩を創造した。「路傍の花」「かなたの空」「勝利」「曙の声」などの詩集があるが、「歩む人」以後は抒情性を脱し、知性派詩人としての特色を強めた。美術評論家としても知られている。

(墓所位置:10区1種14側12番)



内田 康哉 (1865〜1936)

明治・大正・昭和期の外交官、政治家。第2次西園寺、原、高橋、加藤(友)各内閣の外相をつとめる。満鉄総裁に就任し、満州事変勃発後は、満鉄の輸送力を挙げて関東軍作戦行動に協力、ついで斉藤内閣の外相として「満州国」承認・国連脱退と続く国際孤立化の外交を推進した。

(墓所位置:11区1種1側6番)



藤山 雷太 (1863〜1938)


明治・大正・昭和期の実業家。教師をした後上京して慶応に学ぶ。県会議員から三井銀行に入り、芝浦製作所所長。東京市街電鉄、日本火災、帝国劇場などの創立に参加。製糖三社が合併した大日本製糖の再建に成功、一躍財界に重きをなした。また台湾の糖業・パルプ業発展に貢献し、藤山コンツェルンの基礎を築いた。

(墓所位置:11区1種2側2番)


 藤山雷太さんも墓の近くに銅像があります。どうも金持ちは死後に銅像を建てたがるみたいっすなぁ。


大久保 一翁 (1817〜1888)


幕末、明治期の政治家。維新後、駿府に赴任。廃藩置県後、静岡知事に就任。翌年文部省に入るが政府は過渡期の東京市政を円滑に運営すべく、直ちに第5代東京府知事に任命した。幕臣として勝海舟とともに幕政の運営にあたり、また議会制を主張した先覚者でもある。

(墓所位置:11区1種2側3番)



久保 天随 (1875〜1934)


明治・大正・昭和期の文学者・詩人。帝国文学に紀行、随筆、中国文学評論などを発表。のち中国戯曲の研究、作詩、著述、翻訳に傾倒し、「東洋通史」「四書新釈」「文書規範精義」などを著す。また翻訳「酔人の妻」「教授新論」などがある。宮内省図書寮編修官、台北帝大教授。ほかに「山水美論」「白露集」「支那戯曲集」等の著述がある。

(墓所位置:11区1種3側3番)



石渡 荘太郎 (1891〜1950)


昭和期の大蔵官僚・政治家。税制事務の第一人者とされ、第一次近衛内閣の大蔵次官に就任。汪兆銘政権の最高経済顧問として南京に赴任。帰国後東条改造内閣の蔵相、次の小磯内閣でも留任、さらに宮内相をつとめ、終戦前後の混乱に対処した。

(墓所位置:11区1種10側2番)


 ご当人でなくご両親の銅像があります。ご両親も有名なのか、それとも家族思いなのか。

与謝野 鉄幹 (1873〜1935) 与謝野 晶子 (1878〜1942)


明治・大正期の歌人・詩人。落合直文に師事、歌論「亡国の音」で旧派の短歌を痛烈に批判。雑誌「明星」創刊、晶子と結婚し、ともに明星は浪漫主義運動の中心となる。多くの俊才がここに集まった。歌は雄壮で男性的であった。渡欧後慶大教授として国文学、国文学史を講じた。文化学院創設。「日本古典全集」や「鴎外全集」等の編集にも尽力した。

明治・大正期の歌人・詩人。上京し処女歌集「みだれ髪」を出版、鉄幹と結婚。青春の情熱と人間讃歌を歌いあげ、明星派の中心的存在となる。合著詩歌集「恋衣」を出版、これには反戦詩「君死にたまふこと勿れ」が収められている。小説、童話、感想文など多方面で活動、「新訳源氏物語」出版、教育、婦人、社会問題に関する著述も多く、文化学院で教鞭もとった。

(墓所位置:11区1種10側14番)


 ご夫婦そろってスーパー有名人。お墓もご夫婦仲良く並んでます。


ディック・ミネ (1908〜1991)


昭和期の歌手。本名三根徳一。立大在学中にギターを習い、シンフォニックバンドを結成、卒業時には一流のスタジオプレイヤーになっていた。古賀政男のすすめでテイチク入社、「ダイナ」でデビュー。「黒い瞳」「上海リル」も大ヒット。「人生の並木道」「旅姿三人男」の演歌路線でも成功。和製ポップスの草分けからナツメロ歌手の総帥として活躍。

(墓所位置:11区1種14側17番)


 どこの外国人かと思いきや日本人でした。ディックとかジョンソンとか聞くと、あまりよろしくないスラングを思い出すオレとしては、そんな名前で本当に良かったんかお前、と思わなくもない。


中野 正剛 (1886〜1943)


大正・昭和期の政治家。記者時代護憲運動に活躍、東方時論の主筆、後に社長。憲政会、民政党と少壮派として頭角を現わす。国民同盟を結成、その頃から急進ファシズムへと走る。同盟大会後、翼賛会からも離れる。反東条色を強め、倒閣企図の理由で検挙、釈放直後に割腹自殺した。

(墓所位置:12区1種1側2番)



巖谷 小波 (1870〜1933)


明治・大正期の小説家・童話作家尾崎紅葉らの硯友社同人として小説「初紅葉」「妹背貝」「秋の長」などを書き新進作家として知られたが、創作童話「こがね丸」を発表し新生面を開く。博文館に入社、「少年世界」の主筆となり同誌に毎号少年文学・おとぎ話を執筆し、人気を集めた。また楽天居の俳号をもつ俳人でもある。

(墓所位置:12区1種2側18番)



堀 辰雄 (1904〜1953)


昭和期の小説家。芥川龍之介に師事。中野重治らと「驢馬」を創刊、中野らが左翼化していった中で芸術派の道を歩み、「聖家族」で文壇に認められた。プルースト、モーリアック、リルケなどの影響を受けるとともに日本の古美術や五朝文化へ関心を示し、知性と抒情の融合による独自の作風を創りあげた。「風立ちぬ」「菜穂子」は二大傑作である。

(墓所位置:12区1種3側29番)



塚本 靖 (1869〜1937)


明治・大正・昭和期の建築、工芸学者。主に建築意匠装飾を研究、特に日光廟建築および装飾の実測研究にあたる。東大講師、助教授となる。建築学研究のため欧米に留学、帰国後教授。中国建築研究のため渡航日英博覧会開催のため渡英、その後、朝鮮、南満を歴遊、東大工学部長。わが国建築学の権威として知られている。

(墓所位置:12区1種10側1番)



前田 夕暮 (1883〜1951)


明治・大正・昭和期の歌人。上京し尾上柴舟に師事。白日社を創立。処女歌集「収穫」を出版、自然主義歌人として知られた。「詩歌」創刊、「陰影」「生くる日」「深林」などの歌集を出す。北原白秋らと「日光」を創刊し随筆を書き、一時休刊していた「詩歌」を復刊。口語自由律短歌を提唱、つねに老成を拒否し続けた歌人として知られる。

(墓所位置:12区1種10側21番)



床次 竹次郎 (1866〜1935)


大正・昭和期の官僚・政治家。鉄道院総裁、このとき政友会入りして現職官吏の入党と話題になる。原敬高橋是清内閣で内相。原没後政権への志向を強め、声優本当結成、いったん憲政会に合流、民政党発足させるが脱党。第3党の樹立計画も挫折し、政友会に復帰。犬養内閣鉄道相、岡田内閣の逓信相となる。

(墓所位置:12区1種17側18番)



向田 邦子 (1929〜1981)



昭和期の放送作家・小説家。映画雑誌編集記者となり、テレビドラマの台本からテレビドラマの脚本に転向。ラジオの「森繁の重役読本」、テレビの「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「だいこんの花」等がある。小説も書きはじめ「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で直木賞受賞、他に「あ、うん」「父の詫び状」「思い出トランプ」などがある。誰も気づかずにいる人間模様の一場面を切り取り一枚の絵として写し出す名人芸の持ち主と定評がある。台湾で飛行機事故のため死去。

(墓所位置:12区1種29側52番)


 ドラマやなんかの脚本でオレも知ってました。飛行機事故で亡くなられたんですねぇ。


内田 魯庵 (1868〜1929)


明治時代の評論家・小説家。二葉亭四迷と親しく、ロシア文学に早くから影響をうけ、ドストエフスキーの「罪と罰」、トルストイの「復活」などを翻訳した。一方、「暮れの二十八日」「社会百面相」などの社会小説を発表。晩年は随筆を書くようになり、文芸批評や回想談などを残した。「思ひ出す人々」は回想記の傑作である。

(墓所位置:12区2種1側1番)



田山 花袋 (1871〜1930)


明治・大正期の小説家。尾崎紅葉を知り文学を志す。はじめは浪漫的な小説を書き、のちに「重右衛門の最後」で自然主義に系統、「布団」発表後は島崎藤村の「破戒」と並び自然主義文学の代表となる。私小説、心境小説の第一人者、ほかの著書に「田舎教師」「妻」等がある。

(墓所位置:12区2種31側24番)


 オレも知ってるレベルの文豪。まぁ教科書で読んだ程度のレベルですが。



野村 胡堂 (1882〜1963)



昭和期の小説家・音楽評論家。報知新聞社に入社、同誌に人物評論、小説を発表。代表作銭形平次捕物控は昭和6〜32年の間書き続けられた。野村学芸財団を設立。また、レコード収集家、音楽評論家としても知られ、「ロマン派の音楽」「バッハからシューベルト」などの著書がある。

(墓所位置:13区1種1側3番)



石坂 泰三 (1886〜1975)



大正・昭和期の財界人。逓信省をへて第一生命に入り、後に社長。戦後公職追放、解除後東芝社長。生産性本部会長、経団連会長を歴任し財界の中心的存在となった。日本原子力事業、埼玉銀行会長のほか数十社の役員を兼ねた。

(墓所位置:13区1種1側9番)



阿南 惟幾 (1887〜1945)



昭和期の陸軍軍人(大将)。1945年4月、鈴木貫太郎内閣の陸相となり、本土決戦論を主張、ポツダム宣言の受諾をめぐる御前会議では国体護持の立場から条件付き受諾を主張し、東郷茂徳外相らと対立した。終戦の日に自決した。

(墓所位置:13区1種25側5番)



吉田 絃次郎 (1886〜1956)


大正・昭和期の小説家・劇作家・随筆家。島村抱月の推薦で小説「磯ごよみ」発表後、早稲田文学ホトトギスに作品発表。「島の秋」が出世作となった。早大で英文学を講じるかたわら小説、戯曲、感想文をハッヒョウ、人生の悲哀、生の寂寥感を詠嘆的抒情でとらえた陶酔的美文は名文として一世を風靡した。「小鳥のくる日」「草光る」「静かなる土」「大阪城」などがある。

(墓所位置:14区1種1側6番)



箕作 麟祥 (1846〜1897)


明治期の洋学者・法学者。祖父に蘭学を学ぶ。徳川昭武に随行して渡仏。維新後明治政府に仕え、太政官大書記、元老院議官、司法次官、貴族院議員、行政裁判所長官、和仏法律学校校長を歴任。わが国にフランス法を紹介・移入し、また民法・破産法・商法編纂委員となり、明治民法・商法編纂に貢献した。

(墓所位置:14区1種2側2番)



森 槐南 (1863〜1911)


明治期の古注学者・漢詩人。鷲津毅堂・三島中州等に師事。父からも漢詩を学び、明詩風の市を作った。随鴎吟社をおこし、諸新聞に健筆をふるった。宮内大臣秘書官、式部官を歴任。伊藤博文ハルビンで暗殺されたとき、随行していて負傷した。

(墓所位置:14区1種3側3番)


菊池 寛 (1888〜1948)


大正・昭和期の小説家・劇作家。一高同級の芥川龍之介らと第4次「新思潮」を創刊、「父帰る」などを発表。小説は歴史や身辺を扱ったものから「真珠婦人」などの通俗小説にも及ぶ。雑誌「文芸春秋」を創刊。文芸家協会も設立、芥川賞創設など文壇の実力者であった。

(墓所位置:14区1種6側1番)



根津 嘉一郎 (1860〜1940)

明治・大正・昭和期の政治家・実業家。上京し漢学者馬杉雲外の門下に入る。帝国石油設立し社長。ほかに交通、製粉、ビールなどの会社の社長を歴任。その後、徳富蘇峰国民新聞の社長をひきうけた。むさい高校、根津化学研究所を創立。没後、古美術のコレクションをもとに根津美術館が設立された。

(墓所位置:15区1種2側10番)


 馬鹿でかい石灯籠が墓のそばにあって、それがポケスポットになっています。根津嘉一郎さんはこの大灯篭を生前寄付したらしいですね。完成半年前に亡くなっちゃったみたいですけど。




小橋 一太 (1870〜1939)


熊本県出身の政治家。濱口雄幸内閣の文部大臣を務めたが、越後鉄道にまつわる汚職事件(越後鉄道疑獄)で辞任。(※裁判では無罪)。その後東京市市長を務めた。


 小橋一太さんは冒頭の有名人リストには無い人で、Wikipediaなんかを見ててもエピソードが少ないですが、なぜか石碑が立ってたりします。この石碑がポケスポットになってるので、有名であろうが無かろうが気になるわけでして。




安井 てつ (1870〜1945)


明治・大正・昭和期の女子教育者。卒業後母校(東京女子高師)に勤め、イギリス留学、帰国して教授と舎監を兼任。イギリス再留学後、東京女子大の学監、学長を歴任。退職後東洋英和女学校校長となった。

(墓所位置:15区1種10側7番)



林 銑十郎 (1876〜1943)


大正・昭和期の陸軍軍人(大将)。ドイツ留学後、陸大校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官。斎藤、岡田両内閣の陸相。陸軍の反対で宇垣一成の組閣が流産した後、政党を除外した内閣を組織。祭政一致という神がかり的スローガンをかかげた。総選挙は、ファッショ化に対する国民の不満で惨敗し、4ヶ月間の短命内閣であった。

(墓所位置:16区1種3側5番)



前田 多聞 (1884〜1962)


昭和期の政治家。内務省に入り、後に朝日新聞論説委員を経て、東久邇内閣の文相、田中耕太郎、山崎匡輔、関口泰ら異色の人材を起用し教育改革を推進した。幣原内閣で留任。日本育英会、日本ILO協会各会長を歴任した。

(墓所位置:16区1種3側7番)



山下 奉文 (1885〜1946)



昭和期の陸軍軍人(大将)。陸大卒業後参謀本部付、ヨーロッパ駐在後北支那方面軍参謀長、航空創刊など歴任。2・26事件の時帰順勧告書作成。関東防衛軍司令官、第1、2方面軍司令官。シンガポール占領の時パーシバル将軍に降伏を迫った。戦後バターン死の行進の責任を問われ、処刑。

(墓所位置:16区1種8側6番)



木下 杢太郎 (1885〜1945)



明治・大正・昭和期の詩人・劇作家・医者。雑誌「明星」に官能的な詩を発表、北原白秋らと「パンの会」を起こし、雑誌「スバル」の同人となる。唯美的な洗練された感覚の象徴詩が多い。一方、東北大・東大の教授となり医学を教えた。東洋美術にも詳しくキリシタン文化研究の評論もある。

(墓所位置:16区1種12側3番)



 木下杢太郎とはまったく関係のない、ただの猫。ポケモンとかでもないです。霊園って、猫ほとんど見ないんですよね、餌になるものがないからなんじゃないかな、と勝手に思っています。



 既に珍しくもない無縁仏なんですが、何が珍しいって、舛添前都知事の名前で書かれているんですよね。


東 龍太郎 (1893〜1983)


大正・昭和期の医学者。ロンドン大学に留学、体育生理学を専攻。日本におけるスポーツ医学研究の草分けとなる。東大教授。戦後日本体育協会会長、IOC委員、茨城大学長。1953年東京都知事に当選。2期在任し、オリンピックの東京開催に尽力。日本赤十字社長、全日本スキー連盟会長、日本レクレーション協会会長などを歴任。

(墓所位置:16区1種13側7番)



岡本 一平 (1886〜1948) 岡本 かの子 (1889〜1939) 岡本 太郎(1911〜1996)




大正・昭和期の漫画家。東京朝日新聞社に入社し、漫画を書いた。その描写は人間生活の機微に触れ、その独特な漫文とともに多くの人に親しまれ、政治漫画に一時期を画した。妻かの子は歌人・小説家。

大正・昭和期の歌人・小説家。「明星」「スバル」に歌を発表し歌人として出発。夫の一平と欧米遊学後、小説家として死に至るまで多くのユニークな作品を書き続けた。「鶴は病みつき」「老妓抄」「生々流転」など仏教的な人生観と生命観のあふれた作風である。

日本の芸術家。血液型はO型[1]。 若いころにフランスで過ごした経験があり、抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも交流した。第二次世界大戦後、日本で積極的に絵画・立体作品を制作するかたわら、縄文土器論や沖縄文化論を発表するなど文筆活動も行い、雑誌やテレビなどのメディアにも1950年代から積極的に出演した。

(墓所位置:16区1種17側3番)


 スーパー有名人の岡本太郎はご両親も有名人です。墓がファンキー過ぎてビビるわ。


中島 敦 (1909〜1942)


昭和期の小説家。喘息と闘いながら「山月記」などを執筆。「古潭」「光と風と夢」が深田久弥の推薦で発表され、後者は芥川賞候補に上り作家として一躍注目されたが、その年末に病死した。不幸な作家であったが没後「李陵」等の遺稿が発表され、評価が高まった。

(墓所位置:16区2種33側11番)


 人虎です。小説家です。同時期の文豪の名前と比べて普通なので、文豪ストレイドッグスが無かったら作家名自体は印象に残ってませんでした。


ゾルゲ (1895〜1944)


ドイツの共産主義者ソ連邦共産党に入党、上海で在中国諜報機関を組織。横浜で対日諜報機関を創立。近衛文麿ら政界の上層部と親しかった満鉄嘱託の尾崎秀美より情報を入手、ソ連に送った。1941年に検挙、1944年処刑。

(墓所位置:17区1種21側16番)



浅沼 稲次郎 (1898〜1960)

昭和期の社会運動家、政治家。早大在学中に民人同盟会、建設者同盟を組織し、ロシア飢饉救済運動、軍事研究反対運動を指導。1960年に社会党委員長となり、安保改定阻止国民会議を通じて安保闘争を指導。同年10月、日比谷公会堂で3党首立会演説中、右翼テロに倒れた。

(墓所位置:18区1種3側12番)



岸田 国士 (1890〜1954)



大正・昭和期の劇作家・小説家。フランス文学、演劇に興味を持ち、パリに行きソルボンヌ大学で演劇を学ぶ。「古い玩具」「チロルの秋」「ぶらんこ」「紙風船」を発表。のち文学座の結成に参加、小説は心理描写の特色のある作品「暖流」「落ち葉日記」などのほか、「にんじん」などの翻訳物も多い。俳優岸田今日子は娘。

(墓所位置:18区1種10側1番)



三好 十郎 (1902〜1958)

大正・昭和期の詩人・劇作家。在学中早稲田文学に詩を発表。処女戯曲「首を切るのは誰だ」を発表、全日本無産者芸術連盟に参加、プロレタリア劇作家として知られたが、社会的リアリズムと呼ぶ創作方法をとる彼は組織から離れた。「斬られの仙太」「浮標」「をさの音」「獅子」、戦後も「崖」「廃墟」「その人を知らず」「炎の人」などを書いた。

(墓所位置:18区1種36側22番)



藤原 咲平 (1884〜1950)


大正・昭和期の気象学者。中央気象台に入り、「音の異常伝播」の研究で学士院賞ノルウェーに留学、極前線論の研究に従う。帰国後、中央気象台測候技術官養成所、神戸海洋気象台、東大教授を務め、第5次中央気象台長となる。戦後は執筆活動に専念した。

(墓所位置:18区2種85側17番)



上田 貞次郎 (1879〜1940)


大正・昭和期の経済学者。ドイツ、イギリスに留学。帰国後東京高商(一橋大)の教授となり、その後身である東京商大学長となる。スミス、ミルなどのイギリス経済学の影響をうけた自由主義者で、新自由主義を唱えた。晩年には人口問題の研究に新分野を開拓した。

(墓所位置:19区1種10側3番)


 冒頭の有名人リストだと、墓所の位置は「9区1種10側3番」とあるんですが、そちらが間違いで、正しくは19区です。探すのスッゲー苦労した。


徳永 直 (1899〜1958)



昭和期の小説家。共同印刷争議で指導的メンバーとして活躍。この体験に基づく長篇小説「太陽のない街」で労働者出身のプロレタリア作家として一躍注目を集めた。全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加。戦後「妻よねむれ」「静かなる山々」などを発表した。

(墓所位置:19区1種24側17番)


 お墓の文字は徳永直さんの直筆だそうです。こういうのは印象に残りますね。


敬仰忠烈




 ポケスポット。忠烈=忠勇義烈(忠義で勇気があり、正義の心が強く激しい)と書かれた書は当時、東京都長官をしていた陸軍大将の西尾寿造のものなんだそうですが、皮肉にも建立して半年後に敗戦を迎えたらしいです。兵どもが夢のあと。


徳田 球一 (1894〜1955)


大正・昭和期の社会運動家日本共産党の指導者。苦学して弁護士になるとともに社会運動に参加。日本共産党創立に参加した。3・15事件で検挙、18年間投獄される。戦後出獄、野坂参三らと日本共産党を再建。衆院議員に選出されたが、マッカーサーに追放され、地下潜行、中国に亡命、北京で客死した。

(墓所位置:19区1種31側2番)



大辻 司郎 (1896〜1952)


大正・昭和期の活動弁士・漫談師。株屋の店員を経て、活動弁士染井三郎に弟子入りし、東京浅草の帝国館で初舞台。松井翠声徳川夢声らとともに人気を博し、奇声と珍妙な台詞でうけ、震災後、「漫談」の語を創始し、以後、寄席などに出演するようになった。日航機もく星号大島墜落事故で死亡した。

(墓所位置:20区1種20側1番)



亀井 勝一郎 (1907〜1966)



昭和期の評論家。プロレタリア文学運動に入る。「日本浪漫派」を創刊、廃刊後は「文学界」同人となる。仏教思想、仏教美術に深く入り、独特の思想を語って広く影響を及ぼした。「大和古寺風物詩」「親鸞」「信仰について」「現代人の遍歴」「愛の無常について」「知識人の肖像」などの著書がある。

(墓所位置:20区1種22側13番)



大賀 一郎 (1883〜1965)


大正・昭和期の植物学者。八高教授をへて満鉄に入社。中国東北地方の普蘭店から出土した古ハスの種子を研究。戦後、千葉県滑川出土(約1千年前)と検見川出土(約2千年前)のハスの種子の発芽に成功、検見川出土のものは開花し、大賀ハスとして知られている

(墓所位置:20区1種33側15番)



吉川 英治 (1892〜1962)


昭和期の小説家。各種職業を転々としながら小説を書き講談社の懸賞小説に当選。大阪毎日新聞に連載した「鳴門秘帖」で大衆文壇にゆるがぬ地位を得る。「万歌地獄」「江戸三国志」「燃える富士」など発表。朝日新聞に「宮本武蔵」を連載。敗戦後も「高山右近」「平将門」「新・平家物語」「新水滸伝」「私本太平記」などを書いた。

(墓所位置:20区1種51側5番)



阿部 真之助 (1881〜1964)


大正・昭和期のジャーナリスト・評論家。満州日日新聞、東京日日新聞などをへて毎日新聞に入社。社会・経済・学芸各部長・取締役を歴任。退職後は人物評論を得意とする毒舌で知られた。菊池寛賞受賞。日本放送協会会長。

(墓所位置:20区1種52側14番)


 このお墓、全然見つからなくて同じところを何度もウロウロしたんですが、Webで阿部真之助さんのことを調べてどんな事をした人か把握したらすごく目立つ場所に見つかりました。なんか故人の意図に操られていたんだろうかオレは……。恐妻家として有名だったらしく、お墓も奥様と連名で掘られていました。


木俣曲水頌徳碑



 木俣曲水は明治〜昭和の書家で、その書が石碑になっています。ポケスポット。


石坂 洋次郎 (1900〜1986)



昭和期の小説家。教壇に立ちながら創作を始め、1927年、処女作「海をみに行く」が三田文学に掲載された。「若い人」で第1回三田文学賞を受賞。次いで「麦死なず」を発表。上京し作家生活に入り、戦後、「青い山脈」「石中先生行状記」「山のかなたに」「陽のあたる坂道」など庶民的な明るさと正義感を持つ作品を旺盛な筆力で書き続け、幅広い読者を持っていた。

(墓所位置:21区1種1側1番)


 こちらのお墓もポケスポットになっています。座標がずれまくりなことはもう言及しない。



戸川 秋骨 (1870〜1939)


明治期の評論家・英文学者。島崎藤村北村透谷らと「文学界」を創刊。一方東大英文専科に学び、山口高校教授。その後欧米に留学、帰国して慶大教授となる。早くから翻訳家として知られ、「エマーソン論文集」や「哀史」(レーミゼラブル)「十日物語(デカメロン)」は広く読まれた。

(墓所位置:21区1種24側16番)


朝永 振一郎 (1906〜1979)


昭和期の理論物理学者。理化学研究所仁科芳雄に学び、ドイツのハイゼンベルク教授のもとで原子核理論を研究し、湯川秀樹と並ぶ素子論グループの第1人者。ノーベル物理学賞を受賞。原水爆禁止や原子力の平和利用に熱意を示し活躍した。

(墓所位置:22区1種38側5番)


仁科 芳雄 (1890〜1951)


昭和期の物理学者。渡欧し、ラザフォード、ボーアに師事、原子物理学の理論と実験を研究。x線のクライン・仁科の公式を発表。理化学研究所主任として原子核宇宙線の研究を進め、門下から朝永振一郎湯川秀樹らが輩出した。また核破壊装置の建設を進め、サイクロトロンを完成させた。

(墓所位置:22区1種38側5番)


平賀 譲 (1878〜1943)

大正・昭和期の造船工学者。イギリス留学後、海軍技術研究所所長。戦艦陸奥長門などを設計、ワシントン会議で主力艦保有量を制限されると強力な火力を装備した古鷹型重巡、夕張型軽巡などを設計した。のちに東大教授、同総長をつとめた。

(墓所位置:23区1種2側15番)


木村 栄 (1870〜1943)


明治・大正・昭和期の天文学者岩手県水沢の経度観測所の初代所長となる。従来知られていた経度変化の2つの変動成分X、Yのほかに1年周期の第3成分Zを発見した。のち水沢の万国経度変化中央局の局長となり、諸外国の経度観測も指導する学界の権威。

(墓所位置:23区1種22側7番)



倉田 百三 (1891〜1943)

大正・昭和期の劇作家・評論家。西田天香の一燈園に入り、西田幾多郎の影響を受け、宗教的人道主義の立場をとる。同人誌「生命の川」を創刊、愛と信仰を主題とした作品を発表青年層の支持を受けた。代表作には戯曲「出家とその弟子」、評論集「愛と認識との出発」がある。

(墓所位置:23区1種26側2番)



戸坂 潤 (1900〜1945)

昭和期の哲学者。大谷大教授の頃、新カント主義的立場からマルクス主義的立場に移る。上京し法大講師となるが、思想不穏の理由で免職。唯物論研究会を創立、事務局長として、軍国主義に抵抗し、科学的精神を擁護、普及する運動に取り組む。治安維持法により検挙、長野で獄死した。

(墓所位置:25区1種18側32番)



美濃部 達吉 (1873〜1948) 美濃部 亮吉 (1904〜1984)


明治・大正・昭和期の憲法学者。渡欧後、東大教授、比較法制史(のち憲法)を担当。天皇機関説を唱えた。総帥権問題について進言、政府はそれにもとづき軍縮条約に調印。軍部の恨みをかった。機関説問題は政治問題となり、不敬罪で告発され、著書は発禁、貴族院も辞した。日本国憲法の草案の審議にたずさわった。

昭和期の経済学者・東京都知事美濃部達吉の長男。卒業後東大助手、講師をへて法大教授。人民戦線事件で検挙されて辞任。戦後東京教育大教授。東京都知事選に革新統一候補として立候補し、当選。1967年以後3期つとめた。

(墓所位置:25区1種24側1番)


 親子仲良く……かどうかは知りませんが、同じところにお墓があります。家族そろって有名人だと探すの楽でいいですね。



 多磨霊園の最果て、26区の案内看板にカラスがとまっていたのを見て、やっと墓場らしい雰囲気になったなと思って撮影した次第。ものすごい炎天下なんで、今回の冒険でこのシーン以外に不吉な雰囲気は皆無です。心霊写真とかも撮れてない。


江戸川 乱歩 (1894〜1965)

大正・昭和期の探偵小説家。本名平井太郎。処女作「二銭銅貨」により新進作家として認められ、「D坂の殺人事件」「心理試験」「パノラマ島奇譚」などを次々と発表。朝日新聞連載「一寸法師」の完成後、放浪の旅に出る。「陰獣」「芋虫」「押絵と旅する男」「蜘蛛男」などの作品がある。戦後は創作とともに評論・研究に力を入れ、雑誌「宝石」の編集など後進の指導に尽力した。

(墓所位置:26区1種17側6番)


 言わずと知れた推理小説の大家。本名は全然違うんですが、ご丁寧に江戸川乱歩の墓であることを石碑で示してくれているので、探すのに苦労はしません。これでコンプリートだやったーーー!!! ちなみに、この江戸川乱歩の墓もポケスポットなんですけど、なんで座標がこんなデタラメなんだよコンチクショーが!!



感想

 肝心のポケモンハントなんですが……。





※画像はゲットしたポケモンの一部です。


 限りなく普通ですね!


 どこにでもいるポケモンしかいませんでした。レアポケモンとは言わないまでも、せめてゴースとかおばけポケモンがいてくれれば、と思ってたんですが、そういったことも一切ありませんでした。ポケモンハントとしては完全に失敗です。
 ただ、有名人のお墓を全部巡るために30kmくらい歩いたので、ちょっと課金して孵化器を大量に使ったら一気に卵が孵りました。けっこうレアポケモンも出てきたし。そういう意味では無駄ではなかったです。


 オレが今回の冒険で学んだ、有名人のお墓を探す際のコツは以下です。

  • あらかじめ通り名が芸名・ペンネームじゃないか、本名は何かを調べておく。
  • 墓所を示す区・側・番のうち、「番」はあてにならない(墓地自体に「番」が打たれてないから参考にできない)。グルグル歩いて探すことを覚悟する。
  • ポケスポットをお墓探しの参考にしてはダメ!
  • 虫よけスプレーはしっかり持っていき、こまめに使う。長袖・長ズボン・帽子・タオル・スニーカーは忘れない。(特に夏場)
  • 自転車があった方がよい。(区と区の間の移動に便利)
  • 日中に探す(夜に行うと、墓荒らしと間違えられるか、神隠しに遭う)

 有名人のお墓探しが結構難易度が高く、途中でポケモン探しどころじゃなくなった(そうは言っても出没したポケモンは逃げられたのを除いて全部狩った)、という本末転倒な事態にはなりました。


おわりに

 当初目的のポケモンハントとしてはイマイチな結果に終わってしまいましたが、その辺は配信元のナイアンティックに期待しましょう。せめておばけポケモンは出没させて欲しい。まぁレアポケモン探しは無理でも、歩く距離を稼いだりレベル上げをしたりするにはちょうどいいのかもしれません。


 それとは別に、今回は有名人のお墓探しも兼ねたんですが、存外そちらが面白かったです。やっぱりこれだけお墓を見て回れば、色々考えるわけで、ちゃんと墓石には深く名前を彫らないとダメだな、とか、ちゃんと手入れしないと他の人が探せないな、とか、普段考えもしないことに思いを巡らせました。先日祖母の葬儀の際、和尚さんに「他のことはたいていどうでもいいけど、お墓を守ることはちゃんと考えにゃ駄目だに。」とお説教を頂戴したのですが、その言葉を今になってなんとなく噛みしめています。
 多磨霊園は比較的新しい墓地なので、近代日本史の有名人しかいないんですが、それだけに近代についてもう一回調べてみようかな、という気になりました。特に多磨霊園は大戦中の軍人が幅を利かせているので、その辺からアプローチしてみても面白そうです。


 世間はタイミング良く夏休み、小中学生にはぜひとも、ポケモンのレベルアップのついでに、自由研究で有名人のお墓巡りに取り組んでみてほしいなぁとか勝手に思ったりしました。もしやる気になったその際には、故人にきちんと配慮して、あんまり無茶や無礼は働かないようにしましょうね。