ミッションたぶんPossible

どこにでもいるシステムエンジニアのなんでもない日記です。たぶん。

オタクの矜持


 上記は現在「月刊LaLa 2月号」に掲載された「ウラカタ!!」という漫画の1シーンです。作者の葉鳥ビスコさんはアニメやドラマにもなった「桜蘭高校ホスト部」で有名ですね。
 「ウラカタ!!」は大学の複数の自主制作映画サークルの裏方作業を一手に引き受ける「美班」を舞台とした物語です。この1シーンは「オタク学生の住むマンションの一室」というオーダーで作り上げた部屋に対し、無理解で無遠慮な発言をする役者学生を、美班の部長が一喝する、というこの話のクライマックスです。詳しくはLaLa2月号もしくは「ウラカタ!!」の次のコミックスを買って読んで下さい。


ウラカタ!! 1 (花とゆめCOMICS)

ウラカタ!! 1 (花とゆめCOMICS)


 このエントリのタイトルを「オタクの矜持」としましたが、この1シーンにはまさに「オタクの矜持」が完璧に表現されていると思います。ここまで痛快に、強く、分かり易い言葉で「オタクとはなんぞや?」を言い表した文章を、これまでオレは読んだことがありません。


 オレは「オタク」と言われる人種の特性を「突き抜けたもの」と「コミュニケーションロス」であると考えています。


 「突き抜けたもの」とは、対象への興味と好奇心、そして愛情のみで、見返り無しにどこまででも追及できる姿勢と、それによって得られた圧倒的な知見を有する人を指します。これなくして「オタク」であるとは、オレは思いません。
 世間ではアニメや漫画が好きならオタクだと思い込んでる人が多いですが、でっかい勘違いです。特に昨今はオタクに対する理解と認知が深まったとされ、巷に自称:オタクの単なるアニメ好きがはびこっていますが、あんなの単なるファッションや世間話の域です。そんなヌルい輩がストイックかつ崇高な存在である「オタク」を名乗るとはおこがましい。図々しいにもほどがある。
 「オタク」はアニメや漫画のようにジャンルに限定されるものではなく、どの分野にでも存在しうるものです。それが収入につながるほど特化すれば、その分野のスペシャリストにもなれるでしょう。写真に特化した人がカメラマンになり、絵に特化した人が画家やイラストレータになり、学問オタクのなれの果てが学者でなる。収入に繋がらず個人の趣味にとどめる場合でも、何かの折にアウトプットが表に出た際に世間を驚かせることがある。そんな自らの熱意だけで極端に「突き抜けた」人のみが、「オタク」を名乗るに相応しい、とオレは思います。


 一方、「コミュニケーションロス」はその副産物・副作用と言っても良いかもしれません。オタクと呼ばれる人には、自分が興味を持つ分野に集中し過ぎるあまり、他の要素がおろそかになってしまうケースがままあります。
 例えば、いわゆる「空気を読む能力」というものがありますが、仮に「対話の中で適切なタイミングで適切な質・量の返答を経験から瞬時に推し量る能力」と定義したとして、「オタク」は適切な質・量を判断できないことが多く、的外れな応えが返ってきたり、情報の分量として1を尋ねたつもりが10ないし100を返ってきたり、生返事しか返ってこなかったり、黙ってしまったり、なんてことが事象として起こります。
 結果として「オタクは空気が読めない」と他者から揶揄されることとなりますが、オレはこれを、対話の中でのアウトプットに集中するあまり、アウトプットすべき情報が過多になったり、そもそも求められている前提を十分に聞かずにアウトプットを始めようとしてしまうが為に起こる、と勝手に分析しています。往々にして「オタク」と呼ばれる人たちは、その性格が内向的か外交的かに関係なく非常によく喋ります。オシャベリじゃないオタクなんてオレは見たことがない。喋らないことがあっても「自分の知らない分野で喋れない話題だからあえて喋らない」というのがその実だったりするわけです。「空気が読めない」のは、空気を読むためにパラメタを振り分けることが出来ないくらい、別にパラメタを振り分けているから、と言えるでしょう。
 服装や風貌、身だしなみについても同様です。人は見かけで人となりを判断する生き物なので、服装や身だしなみもコミュニケーションの一部と言えます。彼ら彼女らには「そんなもの」よりも優先すべきことがあり、時間・金・思考に割く度合い、それらを服装や身だしなみに振り分けることが出来ないケースが多いものと思われます。


 「コミュニケーションロス」はオタクの特性ではあるのですが、本質ではなく、あくまでそうなってしまう傾向が強いというに過ぎません。
 やはり「オタク」の本質は、前者の「突き抜けたもの」であることにこそあると思います。しかし、その人が「オタク」だと露見されるトリガーとなるのは、後者の「コミュニケーションロス」の場面であることが多いはず。とある人物が、もしその実「オタク」であり「突き抜けたもの」であったとしても、十分なコミュニケーション能力を有していた場合、他者から見てその人を「オタク」だとは気付かないでしょう。それがあるからこそ他者から「オタク」だと認知できる、「オタク」であることに「コミュニケーションロス」は必須では無いものの、「コミュニケーションロス」による行動や言動・振る舞いがあった方が、他者から見る際に「オタク」と認知しやすい、言わば記号のようなものである、とは言えると思います。例えるならば、聖人における法衣や坊主頭であり、SM女王におけるボンテージやハイヒールであり、京極夏彦における和服と指抜きグローブです。



 ここまで長々と「オタク」とはなんぞや、という話をしてきましたが、「オタク」が「突き抜けたもの」であり、それに裏打ちされる特定ジャンルにおける圧倒的な知見を有していることをきちんと認識できるならば、冒頭の「ウラカタ!!」で描かれているように、決して無知で無理解で自らの理解できないものを「キモイキモイ」といって卑下していれば自分のちっぽけな自尊心が満足できる程度の低俗なバンピー共に、けなされたり、ないがしろにされたりするような存在であってはならないことが分かるはずです。「オタク」は「オタク」であることにもっと誇りを持っていいと思います。


 ただし、「オタク」が世間から敬遠・卑下される傾向にあった理由として「コミュニケーションロス」という特性があることは否めないです。可能であるなら改善を試みた方がいいのは間違いないでしょう。
 それに、「コミュニケーションロス」だからといって不用意に人を侮辱したり傷つけたりすることが許されるわけではないですし。
 そもそも、「オタク」であることと人間性の良し悪しは全く別です。クズはどこまで行ってもクズです。「オタク」であることは人間性を損ねていることの言い訳にはなりません。
※全然関係ないですが、最近Twitterのプロフィールで「自称:コミュ障」を謳っている人を見かけますが、それが免罪符になると思ったら大間違いだぞこのゴミダメが!!


 また、「突き抜けたもの」としての真骨頂は、その内に蓄積した知見を適切な形で世に知らしめることが出来た瞬間にこそあると思います。その、どうやったら相手に届くアウトプットが出来るのか「適切な形で世に知らしめる」ためにもコミュニケーション能力は必要です。当人がコミュニケーション能力が乏しくても、周囲の良き理解者がサポートすることで、素晴らしい成果を世に出すことは可能だと思います。


 不要な誤解を避け、「オタクの矜持」たる「突き抜けたもの」という境地を突き詰めて貰えればと願っています。そのアウトプットがいつか「エヴァンゲリヲン」や「青色LED」のような世界を変える何かを生み出す可能性も、オレはあると思うんですよね。