ミッションたぶんPossible

どこにでもいるシステムエンジニアのなんでもない日記です。たぶん。

オリンピックでメダルを取るということ。応援するということ。


(via http://news.line.me/issue/sochi2014-nordiccombined/0914d86cecbb)


 ソチ五輪、皆さん見てますか? 今回の冬期五輪は時差の関係で、仕事から帰って来たらちょうどテレビで見られる時間帯に放映される、という素晴らしい状況なので、オレもほぼ毎日見ています。長野県出身なのにオレはウィンタースポーツにまるで興味が無いんですが、こうやって毎日世界トップレベルのプレイをリアルタイムで見られると、否応無く燃えざるを得ないですね。毎晩声を張り上げながらテレビ観戦しています。(夜中は静かにしましょう、ご近所迷惑です)


 さて、皆さんもご存知とは思いますが、ハーフパイプ男子で平野歩夢選手が銀・平岡卓選手が銅、ノルディックスキー複合男子で渡部暁斗選手が銀メダルを獲得しました。いやぁめでたい!


 ……とはいえ、オレは正直彼は全くのノーマークでした。まぁ彼らに限らず、今回のソチ五輪で出場している選手に対してオレは事前知識を全く持ち合わせていません。加えて、トリノ五輪でのメダルが荒川静香さんの金1つだったことが強く印象に残っており、そもそも冬季五輪ではメダルを取るのが難しいんだろうなぁ、期待し過ぎるのは気の毒だよなぁ、とか勝手に考えていたんですよね。
 そんなイメージを持っていたのに、今回のソチ五輪ではメダルが既に3つと順調な出だし。むしろ選手達に期待してなくて申し訳なかったなぁ、とひとり反省してしまう次第です。まだソチ五輪は始まったばかり、これからも素晴らしいプレイが期待出来そうです。今晩もテレビから離れられない!



 さて、ソチ五輪はまだまだ序盤ですが、個人的には既に強烈に印象に残るエピソードがありました。前述のノルディック複合男子で銀メダルを獲得した、渡部暁斗選手の話です。
 渡部暁斗選手は、長野県白馬村の出身。つまり、1998年に開催された、長野五輪を目の前で見たそうです。その時のインパクトがあまりにも強烈で、その時に見たものの印象があまりにも鮮烈で、彼はオリンピックでメダルを取ることを目指したんだ、そんな風にインタビューで語っていました。長野五輪の当時はまだ彼は9歳、それから16年、ただひたすら世界頂点を目指した結果が、今回銀メダルという形で花開いたのだと思います。



 この話を聞いて思い出したのは、オレの親父です。オレの親父は当時、長野銀行という長野県を主戦場とする地銀で働いていました。今でこそ長野銀行はサッカーJリーグ松本山雅のユニフォームスポンサーで名が若干売れていますが、当時はしがない長野県第二地銀。親父にしても支店長ではありましたが、銀行マンにありがちな転勤族でした。オレら兄妹やお袋を実家の長野県南部にある農村に残して、平日は独り単身赴任、週末は高速を車で飛ばして生家に戻るという生活をしていました。親父の専門分野は「債権」。借金を多大に残した支店に移転しては、返済プランを一緒に考え、問題をひとつひとつ地道に解決して行くという仕事をしていたそうです。息子のオレがいうのもなんですが、決して華やかではない仕事です。ヤーサン絡みの仕事もあったそうですが、当時親父は仕事の話を家庭内で一切しなかったので、そういった苦労話を聞くようになったのはオレが就職してから、とずいぶん後の話です。



 話はちょっと逸れますが、東京にオレが状況してから4〜5年経った頃のことです。故郷を離れて初めて分かったんですが、オレは長野県のことを全然知らなかったんですよねぇ。黒部ダムがどこにあるかも、野沢温泉がどこにあるかも、あんなに有名な白馬(村)がどこにあるのかも。

 だから、学生の間に一度長野県一周回ってみようと思ってみたんですよね、バイクで。実家の長野県飯田市あたりからスタートして、木曽谷回って、松本に出て、黒部ダム回って、長野市に出て、戸隠から白馬村に出て。白馬村と言えば長野五輪のジャンプ台があるところです。オレが長野県一周の旅に出たのは夏なので、当然まともにジャンプ台は機能してないはずですが、それでもせっかくだから見ておきたかった。


 長野五輪の当時は、長野県内には物凄く温度差がありました。実際に競技が行われる長野県北部や中部は五輪の熱狂にうかされていましたが、一方で、オレが住んでいた長野県南部は、全国の五輪熱から取り残されていました。同じ長野県とは言え、雪の殆ど降らない長野県南部では五輪競技は開催されません。代替として学校や公共施設が頻繁に建て直さたと聞いています。長野県は、はっきりいえば仲が悪かったのです。北部や中部の奴らは五輪が開催される誉れに浮かれていたでしょうし、一方でオレら南部の人間はそいつらを恨みがましく思っていました。同じ長野県なのに、この差は何なんだ?


 ジャンプ台は、そんな長野五輪の象徴です。旅行をしていた当時には既にそんな恨みがましさも消えていましたが、それでも見ておかずにはいられなかった。当時はスマホGoogle Mapsもなかったので、分厚い地図を確認するため都度バイクを道脇に止めながら、ジャンプ台を目指したのを覚えています。
 うねりくねった細い道、バイクで運転するにはそれほど難しくもありませんが、オレはそれほどバイクの運転がうまくなかったので、決して速いとはいえないスピードで、のたりくたりとワインディングロードを走っていました。ふと気付くと、すぐ後ろにセダンタイプの白い車が。田舎道を走り慣れた彼らは細かろうが曲がりくねろうが法定速度以上のスピードで走ることができます。オレは、ジャンプ台までの長い道のりを、その白いセダンに煽られながら必死に走るわけですよ。やっとの思いで白馬村ジャンプ台の駐車場に辿り着くと、オレはこれまでのどんな物事に出会った時より驚きました。


 車から降りてきたオレを煽ってきた人物は、オレの親父だったんです。実家から高速で数時間と離れた土地であるにもかかわらず。


 親父曰く「タラタラ走ってるトロ臭い、でもどっかで見たことあるバイクがいたから煽ってみたら、自分の息子だった」と。お前は身内を事故に遭わせる気か!? 「なんでこんなところにいるんな!?」ややキレ気味に返したオレに親父はこう返しました。「このジャンプ台は、うち(長野銀行)の管理物件なんな。」


 夏草生い茂り、中学生だと思われる小柄な選手らが練習をしているジャンプ台を見学しながら、親父は話してくれました。
 当時、親父は銀行の白馬支店の支店長をしていました。当たり前の話ですが、長野五輪を実施する為の設備には莫大な金がかかりました。Mウェーブ、白馬のジャンプ台、その他色々な、みんなが感動したパフォーマンスを生んだ施設の多くが、長野五輪の直前に建造されました。それらを建造する費用が、無借金で建造出来るほど長野県の税収は豊かではありません。それらの一部は借金でまかなわれ、長野五輪の終わったあとも、長い、長い、長い時間をかけて借金返済が行われていました。そうした借金を如何に健全に返済出来るようにするかが、地元の銀行である八十二銀行長野銀行の仕事であり、そこで債権スペシャリストとして働いていた、オレの親父の仕事でした。


 「ここもそれなりに色々あってなぁ。時々こうやって様子を見にきとるんな。」「そしたらたまたまお前がおったっつーわけよ。そもそもなんで陽一はこんなところにおるんな?」


 あっけらかんと語った親父は、表情も、さも当たり前のような面をしていました。人が何かを為すには金がいる。それを良くも悪くも助けるのは銀行で、そこで働く自分の様な人間である。それを納得しているのか、そもそもそんな事さえ気にも留めてないのか、親父は普段家族にはあんまり見せない仕事向けの顔をほんのちょっとだけ垣間見せて、夏の日差しの降り注ぐジャンプ台を、照り返しを手で避けながら目を細めて鬱陶しそうに見上げていました。





 話を戻します。渡部暁斗選手は長野五輪で見た「オリンピック」を見て世界に憧れて、それを景気にその後不断の努力を続けた結果として、今回のソチ五輪で銀メダルを獲得しました。銀メダルという素晴らしい結果は、誰のおかげでもない、間違いなく彼個人の努力の成果であり、他の誰でもない彼オリジナルの名誉でしょう。


 でも、彼の夢を描いて世界頂点を目指したトリガーになったのは長野五輪で、それを招致しようとした本当に多くの「五輪を地元で見たい」と思った人達がいて、実現出来たのは多くの自治体や企業が苦労してくれたおかげで、その施設を手を動かして作ったのは地元の業者で、その努力で足りない部分は、オレの親父のような一切脚光を浴びない人間が全て終わったあとで努力し続けて借金を返し続けて、そうやって未来に繋げた結果が今のソチ五輪に繋がっているんだと思います。きっと渡部選手は、白馬のジャンプ台を、数え切れないくらい飛んだんじゃないでしょうか。

 オレは本当に嬉しかった。親父が単身頑張って仕事していたことが、10年以上経って未来のメダルに繋がっていたことに。オレらが親父がいなくて寂しかったことが、ただオレらが寂しいだけで終わらずに、多くの人に笑顔をもたらしたことに。



 たぶん、オリンピックのような大きなイベントで成果を出すことは、もちろん出場する選手自身のパフォーマンスに寄るところは大きいんでしょうけど、それだけでは決してなし得ないものなのだということを、改めて実感しました。
 オレ達が日々頑張って仕事をしている、そんな何でもないことが、もしかしららどこかで大きな成果に繋がっているかもしれない。それはもしかしたら誰かの大きな助けになって、袖すり合った程度の人でも、あれが自分たちの自慢だ、と誇れる何かを生み出すかもしれない。今は誰にも賞賛されないかもしれないけど、やっぱりオレ達は、世界を、日本を、未来を支えているんだ。そんなことを、親父の過去の仕事から教えて貰った気がします。



 ソチ五輪、まだまだはじまったばかりですが、もし時間が許すなら、是非テレビ越しに応援して上げて下さい。そして、もし思い出したらでいいんですけど、そんなことを頭の片隅でちらっと考えながら見てみて下さい。彼らの頑張りは、きっとオレらの頑張りの結果でもあるんだと。彼らが獲得したメダルは、もしかしたらオレらの頑張りへも勲章なのかもしれない、と。


 そんな風に考えたら、そんなに悪い気分じゃないんじゃないかな、そんな風に思います。オレはこれからのソチ五輪選手の活躍に期待します。きっとそれは、オレの親父の成果が実を結んだのだと、オレ達の未来に期待することと同義なんだと、どこかで信じたいからです。